映画「国宝」〜極上のエンタメ作品 だけど、もう少しストイックに見せて欲しかった。ちょいネタばれ

映画
引用:映画「国宝」公式HPより

25年の実写邦画ヒットNo.1は決まりの「国宝」(原作:吉田修一2018年書籍化)。一人の歌舞伎役者の半生を描いた作品です。「親がないのは首がないのと同じ」という台詞がありますが、血筋が全てな世界。そこに飛び込んだ部屋子の主人公の生涯は歌舞伎役者という職業の業を垣間見たような気がします。

歌舞伎への馴染み

タイトルにもなっている人間国宝。重要無形文化財保持者で国から認定される伝統芸能の人が多い、(王貞治などスポーツ選手除いて)くらいの知識。歌舞伎鑑賞は多い時で年4〜5回程度。きっかけは、テレビ関係の仕事をやっていた時に、大御所の先輩に美術、照明、所作の美しさ、魅せる勉強になるから行けと言われたから。そこで人間国宝の舞台を何度か拝見した。尾上菊五郎、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、坂東玉三郎。めちゃくちゃ歌舞伎に造詣が深いわけでは無い私にとって、吉右衛門さんは鬼平として馴染み深かった。そして玉三郎さんの踊りは、素人の自分がこんなにも感動するものかと思ったのを覚えている。他の歌舞伎知識といえば昔フジテレビでやっていた中村勘三郎ファミリーの密着くらい。勘九郎と七之助がまだちっちゃい頃はよく見てました。40代後半以上世代の多くはこのくらいの認知度はあるのでないだろうか?だって落語家さんと歌舞伎役者さんはよくテレビに出てましたもの。だからこの映画、中高年には刺さってるはず。今回はそんな程度の歌舞伎知識を持った私が映画の感想を書きます。原作は読んでいません。(これから読む予定)原作があっても、映画はそれ単体として成立している作品である、という信念からです。

覇王別姫へのオマージュ

ネットの記事で「覇王別姫へのオマージュ」と書いているのを見てハッとした。「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993年主演:レスリー・チャン監督:チェン・カイコー)を急ぎ再視聴。Googleで自分の加入しているサブスクにあるかどうかを調べるときの検索結果を見る時の賭け感が妙に好き。ロゴがあると、やはり俺の選んだサブスクは間違っていなかった。ロゴが無いと、単純に悔しい。新たに加入する気はゼロ、あっても有料作品だと、やっぱみんなが見たい名作なんだ。と勝手な解釈。ちなみに私は7年間に及ぶサブスク時代を経て、導き出したのは3社。Amazonプライム・ビデオ、Netflix、U-NEXTに常時加入。これで大概は捌けるはず。でも最近AppleTVも検討。有料サブスクの話はまたの機会に。さて話を戻すと、確かに物語そのものは同じスキームと感じました。主人公は2人。幼少から大人までの一代記。構成はというと、芝居小屋へ入る→幼少期 修行→舞台での成功→お互いの失落→再演→相手の死→ラストシーン。項目化してみるとほぼまんま。だが、覇王別姫の場合、盧溝橋事件、日本軍の侵略、文化大革命と世界的な歴史の荒波が主人公たちの人生に容赦なく降りかかってくる。国宝は1964年から始まり、九州の任侠、学生運動、バブルくらいでしょうか?脚本に詰め込むほど激動では無い。注:これは映像化するにあたってという意味で、ひょっとしたら原作にはディティールがもっとあるのかもしれません。構成という点でいえば、三幕構成、ミッドポイントもしっかりしていて両作品とも2時間超えながら客を飽きさせない構成になっていた。

ただ、国宝のストーリーはどこかメロドラマっぽさを感じる。覇王別姫の時代に翻弄されながら、役者の生き様や愛情を泥々なまでに描いた一方で、結局わかりやすい色恋があり、確執が描かれる。日本人そういうの好きですから興行大ヒットなのもうなづけます。そう、国宝は上等なエンタメ娯楽作品なのです。この映画が今後10年20年と何度も見返されるような作品かどうか。ちょっと疑問符です・・。でも撮影監督のソフィアン・エル・ファニの映像は興味深かった。画角の捉え方そのものが私には不思議。が、それは編集にも影響しているのではないかと思いました。切り返し映像の繋ぎがどこか違和感を覚えていました。1枚1枚、独立した絵のようなイメージ。でも舞台を客席からロングで撮る画は美しかったし好きでした。ともすれば様式美に圧倒され退屈な画になるところを工夫してるなと感心させられました。

お芝居のシーンは出石永楽館など実際にある素敵な芝居小屋で撮影とのこと。そこでふと観ていて感じたのは、実際生で歌舞伎を見た時も、こんな照明だっけ?もっと黒が黒だったような気がする。映画用に照明当ててるんだろうなと想像はしてますが、客席が映るシーンでもかなり明るいので若干違和感を覚えました。私の気のせいかも知れません。歌舞伎の演目にもよりますが、もっと明暗がくっきりしてて暗いと思う。同じ黒でも本当に黒が締まって見える。つまり、純粋に主人公だけに集中できなかった。私だけでしょうか。

主演お二人のお芝居は良かったです。めっちゃ稽古したんですよね。特に吉沢亮さんはお見事でした。でもどちらも踊りの時や歩き方とかが女形のそれではなかった気が・・男だよな。そこはご愛嬌。あくまで映画ですから。ただ渡辺謙さんの連獅子は厳しかった。昔、かくし芸大会で芸能人がやっているのを見た記憶がある。それと同じ。やっぱり歌舞伎役者の首の動き、体幹ってすげえと改めて認識しました。よっ中村屋!って言いたくなるもの。なので、渡辺謙さんだけはちょっと厳しい。田中泯さんは、正直判断つかない、わからない。喋り方があまりに女性っぽい。いたっけそういう人?とか思いながら、踊りのシーン。ん〜歌舞伎なのかこれ?ひとりだけ所作も違うように見えた。けど、お芝居始まるとついつい見入ってしまう。さすがです。

坂東玉三郎は血筋ではない

キャッチコピー「その才能が、血筋を凌駕する」ってありましたけど、確かに血筋なんですが、そうではない人もいる。人間国宝の坂東玉三郎そのひと。あの人って才能、センスの塊なんだろうな。素人の私が見て美しくて感動させちゃうんだから。伝統芸能って血筋が大事って仕方がないことだと思う。よちよち歩きの時から歌舞伎を間近で見て、所作を学んでいくわけですから。玉三郎さんは6歳から部屋子になってる。本編劇中の15歳からってめちゃ条件厳しいよね。だから全然あり得るし、今まで歌舞伎界もそうしてきた歴史がある。

なんのかんの言いながら2時間をゆうに超える作品ながら、見入ってしまい楽しかった。さすが李監督と思わされたのは、冒頭の殴り込みのシーンを入れたこと、歌舞伎の話と思いきや、任侠シーン。この裏切り方、伏線、オープニングはお見事でした。エンタメ作品を成立させる上で完全に機能していた。原作者吉田と李監督は「悪人」でも組んでいる。この国宝を書く以前から打ち合わせをしていたというから、原作と映画の領分分けみたいなところもやっていたのでしょう。ですからお互い物足りない部分とか、百も承知で撮ってんだろうなって思いました。カンヌにかける前提で撮っていたのでしょうから、日本の様式美というか、侍以外のカルチャーがエンタメとしてビジネスになるということなんでしょうか。海外のお客さんを前提に撮っている映画と感じる次第。でも歌舞伎の美しさが伝わるいい作品でした。吉沢亮再評価の映画でもありました。

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